ダ・ヴィンチの考え方に影響を与えた出自の秘密!母親は奴隷だった?

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歴史を変える新事実を発見!?

ルネサンスが生んだ天才芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチに新情報が飛び込み、世界を賑わしています。それが何かというと、ダ・ヴィンチの母親は奴隷出身だったという実にセンセーショナルなニュースです。

『ダビンチの母、カフカス地方出身の奴隷 伊研究』
https://www.afpbb.com/articles/-/3455704?cx_amp=all&act=all

一般的には、ヴィンチ村で育った貧しい小作農の娘と考えられていました。代々、公証人という専門職を営む父親のセル・ピエロとは、身分が釣り合わず、結婚に至らなかったと言われています。

実は、ダ・ヴィンチの母親奴隷説は最近に始まった話ではなく、これまでも実は奴隷なのではないかという推測が飛び交っていました。

なんでも、人類学者がダ・ヴィンチの指紋分析を行い「アラブ系の血統が高確率で認められる」という発表をしていたり、アジアの中国出身なのではないかとささやかれてきました。

謎に包まれていたダ・ヴィンチの母、カテリーナの出自ですが、ナポリ東洋大学のカルロ・ベッチェ教授は、

「母親はカフカス山脈から連れてこられたチェルケス人奴隷であり、コンスタンチノープル(現イスタンブール)やベネチアで何度か売られた後、フィレンツェに来た」

と主張しています。カフカス山脈とはコーカサス地方(黒海とカスピ海に挟まれた地域)
にあります。この主張の根拠は、フィレンツェ市の公文書館に保管されている1452年11月2日に書かれた文書によるものです。1452年は、まさにダ・ヴィンチが誕生した年であり、生まれた約半年後に書かれたものとなります。


父親セル・ピエロが、カテリーナの奴隷の身分解放を求めて公証人証書を書き残していたという署名と記録があり、ダ・ヴィンチの母親奴隷説が有力な見方として裏づけられました。

カルロ・ベッチェ教授は、元々奴隷説を信じておらず、奴隷説は間違いであると反証しようと思って調べていたのですが、逆に事実の方向に進んで降伏せざるをえなかったと語っています。

チェルケス人とはあまり聞きなれない人種ですが、後にロシア人によって略奪行為や虐殺が行われ、1864年までに人口の75%が失われており、近代最初の「祖国を失った民族」であると言われています。

この記録文書が確かなものであれば、ダ・ヴィンチの母親であるカテリーナは、10代前半で誘拐されて売り飛ばされ、やがてイタリアの農村にたどり着いたという悲しい出自を持っていたことになります。

母親と再会

さて、奴隷出身の母親であるカテリーナは、セル・ピエロとは結婚できず、「喧嘩っぱやい」を意味するあだ名であるアカッタブリーガという男性に嫁いでいます。その後、男の子1人と女の子4人、5人の子供を産んでいます。ところが、戦乱の世の中にあり、1491年に息子は戦死し、夫であるアカッタブリーガも亡くなっています。

ダ・ヴィンチが書き残したノートには、その2年後の1493年に、「カテリーナ来る」という一文が書き残されており、このカテリーナは母親のことだろうと推測されています。
夫と息子を亡くした喪失感の中で、有名人となっていた頼れる息子ダ・ヴィンチに会いたくなったのではないでしょうか。

実際に、他のノートには、「カテリーナが何をしたいか言ってくれるか」と書き残している文章もあり、精神的に相当落ち込んでいたのかもしれません。

久しぶりに再会を果たした母と子は一緒に時を過ごします。あるノートのページには、カテリーナという名前の上に、「碧玉の指輪」「星形の石」と書いてあります。きっと、母親へのプレゼントとしてアクセサリーを渡したのでしょう。


しかし、2人の生活は長くは続かず、カテリーナは亡くなってしまい、ダヴィンチは几帳面に埋葬費用を記しています。

当然ですが、母親が奴隷だったということは書き残していません。ダ・ヴィンチ家の秘密として内側に秘めていたのでしょう。

ダ・ヴィンチが書き残した解剖手稿という研究ノートには、異なる人種の出生について記述されています。

「エチオピアの黒人は、太陽が原因で黒いのではない。なぜなら、スキティアで黒人が黒人女性を妊娠させると黒人が生まれ、黒人が白人女性を妊娠させると浅黒い子が生まれるからである。以上のことは、母親の種子が父親の種子と等しい能力を胎児に及ぼすことを示している」

このような異国の胎児への関心も、自身の出生と関係しているのかもしれません。

生粋のイタリア人である父親のセル・ピエロはどのような人物だったのかというと、地位と名誉を求めた仕事人間でした。

ヴィンチ村から都会のフィレンツェに移住し、バリバリと公証人の仕事をこなして実績を積み重ねていきます。また、公証人の後継ぎを求めて4人の女性と結婚し、その間、16人の子供をもうけています。

異国からやってきた奴隷の母親と、野心家であり好色な仕事人間の間に生まれた子供が自分であると認識したダ・ヴィンチの胸中は、一体どのようなものだったのでしょうか。

世にも奇妙な人物画

ダ・ヴィンチの残したノートには不思議な人物が描かれています。

最も有名な作品は、「ウィトルウィウス的人体図」です。黄金比という絶妙なバランスで構成されていることで知られていますが、人間が2人重なって描かれています。

実は、同時代の画家も似たような作品を書き残していましたが、人体を重ねたのはダ・ヴィンチならではの発想です。


他にも人生を考えさせる不思議な人物画を描いていますが、謎めいた2人の人物が合体しています。


ダ・ヴィンチは関連するもの、時には、まったく異なるものを組み合わせて1つの創造物を生み出していました。

その背景には、両親が異なる国の人であったという、自身の出生の秘密が影響していたのかもしれません。

たとえハーフやクオーターでなかったとしても、私たちも自分のルーツを見直すことで、何か新しいことへのチャレンジにつながる可能性があります。たまには両親がどのような人生を生きてきたのか、または、幼かった自分の様子を聞いてみるのもいいでしょう。

今後もきっと歴史上の思わぬ新事実が発見されていきますが、そこから学べることを考察していきたいと思います。

海外に触れてみよう!

旧:WEBマガジン・作家たちの電脳書斎 デジタルデン    2023年 4月 公式掲載原稿 
現:作家たちの電脳書斎デジタルデン 出版事業部 (https://digi-den.net/) 

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