レオナルド・ダ・ビンチの生涯のほとんどは異国を遍歴しており、“さまよえるフィレンツ人”と呼んだ人もいます。
今回は、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯、また妻や子孫はいるのか?
ということも含めてご紹介いたします。
レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉・名言については、下記にまとめておりますのでご覧ください。
またダ・ヴィンチの生涯の年表はこちらにあります。
レオナルド・ダ・ヴィンチの出生
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日イタリア、フィレンツェ近くのヴィンチ・ディ・ヴァル・ダルノ(アルノ河の谷のヴィンチ村)という村にあるアンキアーノで生まれました。
祖父のアントニオ(当時80歳)の記録によると、「わたしの息子セル・ピエロの息子は、4月15日土曜日、夜の3時(今日の歴では22時30分)に生まれた」と家の帳簿に記載されています。
名前がレオナルド、ダ・ヴィンチが苗字です。
「ダ・ヴィンチ」の元々の意味は「ヴィンチ村の」という意味ですが、ダ・ヴィンチの5代前の先祖から家名として用いられるようになりました。明治以前の日本と同じように、一部の上流階級や由緒ある家系を除いて、多くの人は苗字を持っていませんでした。欧米では、名前のレオナルドを呼称として使っていますが、日本では「ダ・ヴィンチ」の方が言いやすく、よく使われるので、以下では「ダ・ヴィンチ」と表記します。
レオナルド・ダ・ヴィンチの本名(フルネーム)はレオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ(Leonardo di ser Piero da Vinci)。意味は、「ダ・ヴィンチ村に住むセル・ピエロの息子レオナルド」です。
次にダ・ヴィンチの父母について説明していきます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの両親
ダ・ヴィンチは、ヴィンチ村の代々公証人(契約にまつわる公的な文書を扱う弁護士のような仕事)を務める一族のセル・ピエロ・ダ・ヴィンチを父にしますが、嫡出子(正式な法律上の子ども)ではありません。ちなみに「セル」とは、公証人につけられる敬称です。
母は、村外れのアンキーノに住む農夫の娘カテリーナで、身分の格差が原因でか2人は結婚しませんでした。(一説には、母親はアラブや中国系の奴隷であったという説もあります)
ダ・ヴィンチは父方に引き取られ、生母カテリーナは5年後、窯焼き職人である通称アカッタブリーガ(喧嘩っ早いを意味する)の元へ嫁ぎました。
ちなみにセル・ピエロは4回結婚していますが、最初の2回は子どもがないまま奥さんと死別、3回目と4回目の結婚で49歳以降、9男2女の嫡子を生んでいます。
ダ・ヴィンチは、庶子(父母が婚姻関係にない子供)ではありましたが、祖父と叔父に可愛がられてすくすくと成長しました。その祖父と叔父についても少し触れておきましょう。
自由人すぎる祖父と叔父
ダ・ヴィンチは親戚からも愛情を受けており、叔父とも長年深い交流があります。
ダ・ヴィンチの祖父は、代々受け継がれてきた公証人にはならず、その他の定職を持たずに、土地の収入だけで生きていたいわば自由人。自然豊かなヴィンチ村で、悠々自適な生活を送っていました。
また父の弟であるフランチェスコも祖父の気質を受け継いだニート的存在。祖父が税の申告をした際、フランチェスコについて、何もしないでぶらぶらしていると書き残しています。時間的に恵まれていた祖父と叔父は、母親代わりにダ・ヴィンチを可愛がりました。
叔父のフランチェスコは、1507年頃なくなりますが、遺言状でダ・ヴィンチへ遺産分配を行っています。
これは実は異例なことでした。なぜなら他に10人以上の甥や姪がいる中で、非嫡出子であるダ・ヴィンチにだけ遺産を残そうとしたからです。
いかにダ・ヴィンチに対して思い入れがあったかが分かる記録です。
ダ・ヴィンチは、実の母親には愛情を持って育てられなかったものの、家族には愛されていたのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの幼少期
ダ・ヴィンチはプライベートなことをほとんどノートに書き残していません。特に幼少期については、あまり記録がなく、不明な点が多いです。
その中で、幼少期に感するダ・ヴィンチの手記があるので紹介します。
「とんびについてこのようにはっきりと書くということは、私の運命であるように思われる。なぜなら、私の幼少期の最初の記憶では、私はゆりかごにいて、とんびが私のところにやって来て、その尾で私の口を開け、何度も唇の奥を突いたからである」(アトランティコ手稿)
この文章はオーストリアの精神医学者であるフロイトが着目した文章で、ダ・ヴィンチの同性愛の深層心理が反映されていると指摘されています。
その他、ダ・ヴィンチの幼少期については、画家で著述家のヴァザーリの伝記が参考にされています。
「真に驚嘆すべき神々しい人であったレオナルドは、セル・ピエロ・ダ・ヴィンチの息子であった。もし彼がもろもろの知識の習得や学問の基礎的な勉強において、あれほど定まりなく気移りする性格でなかったならば、必ずや大きな成果をあげていたことだろう。というのは、彼は多くのことを学び始めるのだが、始めるとすぐに止めてしまうからであった。こうして算術では、習い始めてわずかな月日のうちにすっかり覚えてしまうと、教えていた教師に絶えず疑問や難問を投げかけ、しょっちゅう彼をやり込めてしまうのだった。音楽に関心を抱くと、すぐにリラを弾く勉強を始めたが、生まれつきの気品と優雅さに富んだ気質の持ち主だったので、リラに合わせて即興で天使のような声で歌うのだった」と書き記しています。
ダ・ヴィンチは絵の才能のみならず、音楽の才能も持ち合わせており、複数の楽器の発明もしています。
庶子であるダ・ヴィンチは、父親の公証人にはなれなかったため、芸術的な才能を見出した父親によって、工房に入れられることになるのです。
これがレオナルド・ダ・ヴィンチが万能の天才になる一歩を踏み出した瞬間でした。
天才になれた理由はこちらの記事をお読みください。
第1フィレンツェ時代
ここからは、ダ・ヴィンチが最初にフィレンツェにいたときのことに触れていきます。
フィレンツェ
1466年 一流の芸術家を養成する工房で徒弟修業
1466年14歳のとき、父は友人でフィレンツェで随一の工房を営むアンドレア・デル・ヴェロッキオへ息子を入門させました。
当時は6年の修行が普通のようで、ダ・ヴィンチも6年間修行を行ったようです。
1468年に祖父アントニオの死後、父たちがフィレンツェに引っ越したあとは父と継母と共に暮らしていました。
ちなみにフィレンツェに来てからのセル・ピエロは公証人として一層活躍していきます。
1472年 画家組合に登録と助手の継続
ダ・ヴィンチは、20歳で1472年6月にフィレンツェのサン・ルカ画家組合に、組合員として登録され、マエストロ(一人前の師匠)として認められました。
これで独立して店を開くことができる資格を有していたのですが、まだヴェロッキオと共同製作者として工房に留まりました。
まだ独立できるほどの基盤が整ってなかったのか、スキルを磨くことに時間を使いたかったのでしょう。ヴェロッキオの工房は、当時最も技術が進んでいる工房だったようなので、修行する環境では理想的な場所でした。工房には、『ヴィーナスの誕生』で有名なサンドロ・ボッティチェリも出入りしていており、感性の刺激を得ていました。
このときに制作したと思われる作品も多数残っています。
一例を挙げると、『キリストの洗礼』です。これは師匠のヴェロッキオとの共作で、何人かの弟子の手が入っていると言われていますが、天使と背景をダ・ヴィンチが描いたと言われています。その卓越した描写は師匠の出来栄えを上回っており、ヴェロッキオは以降筆を持つのをやめて、得意の彫刻に専念するようになったという逸話が残っています。
1476年 サルタレッリ事件
この頃、ダ・ヴィンチは逮捕されています。
17歳のヤコボ・サルタレッリという青年との男色行為疑惑で罪に問われたのです。
ダ・ヴィンチを含む数人に対して、街に設置された目安箱のような設備に、無記名の密告文が投げ込まれていたのです。公証人として敏腕だった父の手回しがあったのか、証拠不十分とのことで全員無罪放免となりました。これは誰かの嫌がらせだったのかもしれませんが、ダ・ヴィンチにとってはショッキングな出来事でした。ダ・ヴィンチの同席愛疑惑がかけられるもの、この事件が一つの根拠になっています。
逮捕されて一時的に牢屋に入れられた恐怖からか、後に牢屋から脱出するための道具も発明しています。
1478年 政府からの委託と二つの生母画
ダ・ヴィンチにとって、1478年は重要な年になったと思われます。
画力の向上も見られ、一躍有名になり始めた時期だと考えられます。
1478年9月〜12月
2つの聖母画を描き始めたことが手記に残されています。
その2つは、『ブノワの聖母子』、『猫の聖母』と考えられていますがはっきりわかっていません。
『ブノワの聖母子』は現在エルミタージュ美術館に所蔵されており、『猫の聖母』の方は
下書きスケッチが残されているのみです。
1478年〜1479年 パッツィ家の陰謀事件
1478年にはパッツィ家の陰謀事件がおこり、1479年にダ・ヴィンチはその事件に関わっていたベルナルド・ディ・バンディーノ・バロンチェッリの絞首刑の様子をスケッチしています。クーデターを起こしたメンバーの1人で、国外逃亡していたところ捕まり、二度とこのような事件を起こさないための見せしめを想定したスケッチです。
1481年3月 サン・ドナート・ア・スコペート修道院祭壇画
29歳のこの年、フィレンツェ郊外サン・ドナート・ア・スコペート修道院の祭壇画を委託されています。
このときには、ダ・ヴィンチは独立して、一人で生計を立て始めました。
まだ仕事も多くない不安定な時期でしたので、この依頼の背景には、修道院の経済顧問をしていた父親の手回しがあったのではないかと言われています。
貧乏画家だったので、ワインや小麦の現物支給を前借りして下絵を製作しました。絵のテーマは『東方三博士の礼拝』
しかし、残念ながらダ・ヴィンチはこの絵を完成させることができず未完のまま放置します。現在は、イタリアのウフィッツィ美術館で見ることができますが、未完とはいえ大作といっていいでしょう。
1481年、教皇シクストゥス4世がシスティーナ礼拝堂側壁の壁画製作のために、フィレンツェを代表する優秀な画家たちと契約。しかし、この人選からダ・ヴィンチは漏れてしまいました。他の画家に引けをとらない実力はあったものの、遅筆だったことや完成させることができなかったことが裏目に出たのか、名を上げる大きなチャンスを逃してしまいました。
そして失意の中、1482年、新天地ミラノに移動して、新たな活躍の場を求めたのです。
ミラノ公国滞在時代
ここからはイタリア、ミラノ公国に滞在していた時の話です。
ミラノ
1483年4月25日 サン・フランチェスコ聖堂の祭壇画
31歳の頃、ミラノに移住していたダ・ヴィンチは、無原罪のお宿り信心会から祭壇画の依頼を受けています。
作品のタイトルは、『岩窟の聖母』
実はこの作品、現在はパリのルーヴル美術館と、ロンドンのナショナルギャラリーの2拠点に飾られています。
なぜ2つあるのかというと長くなるので、また今度解説したいと思います。
さて、ミラノでの移住は、17年間におよび、数々の作品を残しました。
ミラノでは、宮廷の音楽家として活躍したり、建築家としてミラノ大聖堂の中堂円蓋のモデルをつくり、デザイナーとしても活躍し、絵画論の著述をするなど、多方面の才能で活躍しています。
1493年フランチェスコ・スフォルツァの騎馬像の原型完成
ミラノでの大きな成果としては、フランチェスコ・スフォルツァの騎馬像制作があります。
師匠のヴェロッキオも1479年に、ヴェネツィア共和国の傭兵隊長、バルトロメオ・コッレオーニの騎馬像の委託を受けて制作しています。ヴェロッキオはヴェネツィアに移住してまで製作をしたのですが、急病で亡くなり別の芸術家が引き継いで完成させました。
ダ・ヴィンチが制作しようとしたフランチェスコ・スフォルツァの騎馬像のサイズは、なんとヴェロッキオが手がけたコッレオーニの騎馬像の2倍近くの巨大なものでした。その高さ7.2メートル。
ダ・ヴィンチは情熱を費やして原型の模型まで作りましたが、戦争のためにブロンズは大砲用に転用されてしまい、そして後にミラノに進行したフランス軍によって、模型も崩されてしまいついに未完となってしまいました。
1498年 傑作『最後の晩餐』完成
46歳ころには、主君のイル・モーロから依頼があり、サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院の食堂のための壁画『最後の晩餐』が完成を迎えています。
1495年にはすでにとりかかっている手記が見られるので、その前から依頼があったようです。
未完の作品が多い中、数少ない完成品といえるでしょう。
『最後の晩餐』についてはこちらの記事をお読みください。
マントヴァとヴェネチアの滞在
1500年頃 イザベラ・デステの肖像
1499年にフランス軍がミラノを占領したころ、ダ・ヴィンチはミラノを離れてマントヴァにいき、2ヶ月あまりの滞在中に公妃イザベラ・デステの肖像画を素描しています。現在、パリのルーヴル美術館に飾られています。
その後、ヴェネツィアに立ち寄ったあと、48歳のときにフィレンツェへ戻りました。
第2フィレンツェ時代
帰郷したあとは、少し絵も描いていますが、軍事土木技師としても従軍しています。
戦争の恐ろしさを目の当たりにし、“野獣的な狂気”という言葉を残しています。
1501年 『聖アンナと聖母子』
ダ・ヴィンチは、帰郷後サンティッシマ・アヌンツィアータ教会のための祭壇画を依頼され、『聖アンナと聖母子』のカルトンを描きあげました。
これは1501年の復活祭に2日間公開されると評判を呼び、公開中絵を見るための行列が絶えなかったと言われています。この時の作品は現在に残ってはいませんが、別のカルトンと彩色画は現存しています。
1502年 軍事土木技師として従軍
ダ・ヴィンチは、1502年50歳の夏に、ほぼ8ヶ月間、中部イタリアにおけるチェーザレ・ボルシアの軍事土木技師として従軍しました。
ダ・ヴィンチの新たなパトロンである、チェーザレ・ボルジアに採用されたのです。
ダ・ヴィンチの機械工学や土木測量学などの知識を十分に活かせる機会となったのでしょう。
しかし、ダ・ヴィンチはそこから得たのは、戦争に対する憎しみだけでした。
1503年 戦争画の依頼を受ける
1503年、ダ・ヴィンチはフィレンツェに戻りました。
そして53歳になったダ・ヴィンチは、現在のヴェッキオ宮殿の大会議室の壁画を飾る戦争画を依頼されることになります。
テーマは2つの戦勝記念の壁画で、1つはダ・ヴィンチに依頼された『アンギアーリの戦い』で、もう1つはミケランジェロが描く『カッシーナの戦い』でした。
イタリアが世界に誇る2大芸術家の大勝負だったのですが、残念ながら両者とも途中まで制作したものの、完成には至りませんでした。
ダ・ヴィンチの未完の原因は、古代に学んで新しく挑戦した蝋画の技法の失敗によるものです。一方、ミケランジェロも、彩色の段階になって教皇ユリウス2世からローマに召喚されたため下絵で残される形になりました。
両者の作品は、今日他の画家の模写によって、その偉大なセンスの輝きを知ることができます。
モナ・リザ
この頃から並行して、世界的に最も有名な絵画、『モナ・リザ』を描き始めています。
『モナ・リザ』は1503年には着手しており、死ぬまで加筆修正をし続けたと言われてます。
『モナ・リザ』については詳しくは別の記事で解説します(準備中)
1504年 父の死
ダ・ヴィンチは父の死については手記に「1504年7月9日水曜日7時に死亡」という内容の記載を何度もしています。
しかし、自分の感情や父との思い出を書き残すことはなく、ただ事実を記しています。
第2次ミラノ公国滞在
戦争画を書いている途中でしたが、ダ・ヴィンチはまたミラノへ訪れるチャンスに恵まれます。
そして、約6年間とどまることになります。
1506年 ミラノ公国滞在
ダ・ヴィンチは、ルイ12世の宮廷画家兼技術者となりました。
またトリヴルツィオ将軍の記念騎馬像(現存せず)、現在失われた『レダと白鳥』、そして最後の作品となる『洗礼者ヨハネ』の制作にも取りかかりました。
またこの時代には、特に水流に関する研究、運河工学なども集中して学び、1510年には解剖学者マルカントニオ・デッラ・トッレに学んで人体を探求し、さらに研究の幅を広げました。
ローマ滞在
ここからは少しダ・ヴィンチが不遇な時代をおくります。
1513年 ライバルの台頭
ダ・ヴィンチは64歳ころに、教皇レオ10世の弟ヌムール公ジュリアーノ・ディ・メディチに仕えるため、ローマに向かいました。
ところが、3年後の1516年に、パトロンだったヌムール公が死んだため、ローマではほとんど業績を残していません。
しかしこの頃、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を描き終えた直後であったり、ラフェエロが次々と作品を描いて脚光を浴びていました。
ダ・ヴィンチは、この頃ドイツ職人を雇ったのですがそれが問題児で、自分が熱心にやっていた解剖も黒魔術をしていると密告され、解剖実験をすることができなくなりました。
フランス滞在
1516年に、ダ・ヴィンチはローマを去り、ルイ12世の後継者フランソワ1世がパトロンとなったため、フランスへ移住しました。
1517年には、弟子のメルツィやサライなどと、フランスのアンボワーズにあるクルーの館に住んでいます。
ここでは思索や手記の整理に励みながら、かつて拍手喝采された「天国の祭典」の再演をしました。幻想的な演出で多くの人を感動させたことでしょう。
自然に恵まれた穏やかな空間でゆっくりと余生を過ごしました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの最後
ダ・ビンチは1519年4月23日に遺言書を書いています。
立会人は愛弟子のメルツィであり、遺言状の執行人もメルツィでした。
その遺言を書いたわずか9日後の5月2日に、レオナルド・ダ・ヴィンチは67歳の生涯を閉じました。
1519年8月12日には、遺言のとおり、アンボワーズのサン・フロランタン聖堂においてとりおこなわれ、遺産分配等も無事に行われたということです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの妻や子孫について
レオナルド・ダ・ヴィンチは生涯独身を貫き、妻や子孫はいませんでした。
しかし、家族のような愛弟子がいて、強い親子のような信頼関係で結ばれていました。
ダ・ヴィンチが残したノートなど、遺産の多くを受け取ったメルツィはこのように言っています。
「私にとっては、父親同然のお方でした。この悲しみは言い表すことはできません。私の命の続く限り、私の心が晴れることはないでしょう。それも、日々、師が私に注いでくださった愛情を思えば当然のことと思われます」
ダ・ヴィンチが生涯をかけてあきらかにしたこと
レオナルド・ダ・ヴィンチは一生涯、限界を超えて自分の人生にチャレンジをしました。
私たちはそこから人生を大きく変えるための深い知識とノウハウを学ぶことができます。