【年表】レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と日本史・世界史比較

ここでは、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と、日本史、世界史を比較した年表を掲載しています。

年代(ダ・ヴィンチ年齢)レオナルド・ダ・ヴィンチ     日本史     世界史
1452年(0歳)4月15日 誕生 
実母は父と結婚せず、父はアルビエーラと結婚
7月27日 実母が窯焼き職人に嫁ぐ
室町時代:細川勝元が管領に就任する
1453年(1歳)東ローマ帝国滅亡
フランス軍、ボルドーをイングランドから奪還、百年戦争終結
1457年(5歳)2月27日 祖父の納税申告書に家族構成が記される太田道灌による江戸城の築城
コシャマインの戦い
1464年(12歳)継母アルビエーラが出産後死亡足利義政の弟義尋(足利義視)、還俗して将軍後継者となる。8月1日 銀行家コジモ=デ=メディチ死亡
1465年(13歳)イタリア・フィレンツェに移り、ヴェロッキオ工房に入る。
父セル・ピエロはフランチェスカと2度目の結婚。
1467年(15歳)応仁の乱が始まる。
1468年(16歳)
祖父アントニオ死亡
ヴェロッキオ工房でサンタ・マリア・フィナーレ大聖堂頂部の聖堂球工事着手
ヴェロッキオ工房でサンタ・マリア・フィナーレ大聖堂頂部の聖堂球工事着手

十三年戦争が終結。
1469年(17歳)父の税申告書に17歳の記述あり6月8日、日本、改元して文明元年
1471年(19歳)蓮如が越前に吉崎御坊を建立
桜島の「文明大噴火」
1472年(20歳)6月 フィレンツェのサン・ルカ画家組合に親方として登録
1473年(21歳)8月5日 「風景素描(雪のサンタ・マリア)」制作(線画)オトゥルクベリの戦いでオスマン帝国のスルタンメフメト2世が白羊朝を破る。
1474年(22歳)継母フランチェスカ死亡一休宗純が大徳寺の住持に就任

足利義尚が室町幕府9代将軍になる。
モスクワ周辺で地震。完成間近のウスペンスキー大聖堂が倒壊。
1475年(23歳)父セル・ピエロ、マルゲリータと3度目の結婚
ダ・ヴィンチ、「キリストの洗礼」に再着手
ミケランジェロが誕生
1476年(24歳)4月9日 男娼ヤコポ・サルタレッリにモデルを打診したことで男色行為として告発される
最初の異母弟アントニオ生誕
長尾景春の乱ミラノ公国の支配者で、圧制者ガレアッツォが暗殺される
1477年(25歳)応仁の乱が終結する
山城の土一揆が起こる
1479年(27歳)ダ・ヴィンチがパッツィ事件逃亡犯ベルナルドの処刑の特徴を記入蓮如が山科本願寺を建立スペイン王国成立
モナ・リザのモデル「リザゲラルディーニ」が誕生
1480年(28歳)父セル・ピエロおn税申告書にダ・ヴィンチの名前がなくなる。
セル・ピエロがフィレンツェで事務所をかまえる。
京都で徳政一揆が起こるヴェロッキオ、ヴェネツィア共和国政府から「コッレオーニ騎馬像」の制作委嘱
1481年(29歳)「東方三博士の礼拝」の制作を、サン・ドナート・ア・スコペート修道院より注文を受け、契約する。
ダ・ヴィンチは「システィーナ礼拝堂壁画」の制作者選考に漏れる。
田屋川原の戦い
1482年(30歳)イル・モーロ宛て自薦状を提出室町幕府と古河公方足利成氏との和睦が成立、享徳の乱終わる。(都鄙合体)ラファエロが誕生
1483年(31歳)デ・プレディス兄弟とともに、岩窟の聖母の制作を委嘱足利義尚の命により、二条衣棚(現・京都市中京区)に移転。
1485年(33歳)継母マルゲリータ死亡
父セル・ピエロが、ルクレツィアと結婚
山城国一揆が開始(1493年まで)イギリス、テューダー朝が成立
1486年(34歳)ヴェロッキオがヴェネツィアに移住し、コッレオーニ騎馬像の制作に専念する

ランカスター家とヨーク家の融和、薔薇戦争の終結。
1487年(35歳)8月8日 ミラノ大聖堂ティブーリオの模型案を出し、採用され8リラの支払いを受ける
9月30日 再度8リラの支払いを受ける。
長享の乱(1505年まで)
1488年(36歳)1月11日 ミラノ大聖堂ティブーリオの模型案に40リラの支払いを受ける加賀の一向一揆が開始(1580年まで)5月 バルトロメオ・ディアスが喜望峰に到達
6月30日 ヴェロッキオが死亡(10月7日説もある)
1489年(37歳)7月22日 ミラノの大使ピエロ・アラマンニから、イル・マニフィコ宛の書簡に、イル・モーロが(スフォルツァ騎馬像)をレオナルドに要請したとの記述。足利義政、銀閣寺の建立
1490年(38歳)1月13日 ​ミラノ公ジャンガレアッツォ・マリーア・スフォルツァと王冠ナポリ王の娘イザベッラ・ダラゴーナの祝婚行事として
「パラディーゾ(天国の祝祭)」上演、ダ・ヴィンチが総合演出を担当。
4月23日 「1490年4月23日、この本を書き始める。馬を再開」
5月10日、ミラノ大聖堂ティブーリオに関するあらたな依頼。
6月 フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニとともにパヴィアに行き、「レジソーレ」を視察。
7月22日 サライが住み始める。当時10歳。
7月23日 サライが住み始めて2日目に、4リラ財布からくすねた。
7月24日 サライが住み始めて3日目に、2人前の食事を平らげる。
9月7日 サライがマルコ・ドッジョーノの22ソルティ相当の銀筆を盗む。

『白貂を抱く貴婦人』を制作?

アルジェロ・ポリツィアーノ台本による劇「オルフェ」を初演か?
足利義政が死去。
足利義稙が室町幕府10代将軍になる。
1491年(39歳)1月26日 ​騎馬槍試合の総合演出。その最中に、サライが他人の財布を盗む、2リラ4ソルディ
4月2日 ボルトラッフィオの24ソルディ相当の銀筆をサライが盗む。
5月12日 「制作中のブロンズの馬について記す」
マントヴァで「オルフェオ」劇再演。弟子:アタランテ・ミリオロッティが主役をつとめる。
実母:カテリーナとアカッタブリーガ(夫)の子フランチェスコが戦死。アカッタブリーガも死亡。
足利茶々丸が継母・円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の座を奪う。エヴァンジェリスタ・デ・プレディス(「岩窟の聖母」共同制作者)が死亡
1492年(40歳)ジュリアーノ・ダ・サンガッロに、騎馬像の鋳造への助言をあおぐ。日本、改元して明応元年フィレンツェを実質統治していたロレンツォ・デ・メディチが死亡
教皇アレクサンデル6世が即位
コロンブスがサン・サルバトル島に到達
スペインがグラナダを占領
1493歳(41歳)1月1日 ​円が大きくなると
コンパスを使う必要があるのはなぜ、の記述に年紀。
3月18日 「ドイツ人のジューリオ、私のところに来る」
同紙葉に、他に2月末、9月27日、10月6日の記入あり
7月16日 「カテリーナ来る」
11月1日 金銭メモと、それまでの数ヶ月の仕事の記録と期間
11月30日 「スフォツルァ騎馬像」の粘土逆像模型、
ピアンカ・マリーア・スフォルツァと神聖ローマ皇帝マクシミリアンの祝婚祭典で披露。
12月20日 騎馬像鋳造の記述(横倒しにして鋳造することにした)
北条早雲が伊豆の堀越公方を滅ぼす
1494年(42歳)『最後の晩餐』の壁画を委託される。
​​「ラ・ベル・フェロニエール」を制作?
1月29日 出費メモ、同紙葉に「壁の高さは何プラッチャか。125プラッチャ6」の記入(最後の晩餐に関する最初の記述)
2月2日 スフォルツァ城での階段の設計メモ、
2月〜3月 ヴィジェヴァノに滞在。
3月14日 「ガレアッツォが来て私のところに住む」
3月20日 「ヴィジェーヴァノの葡萄園」
6月26日 ミラノの公文書に「フィレンツエのカテリーナ」
なる女性が60歳で亡くなったとの記録。
7月14日 「ガレアッツォから2ライン・フィオリーニを受け取る」
9月15日 「ジューリオは、私の仕事場の鍵にとりかかる」
11月17日 イル・モーロが、騎馬像のためのブロンズをフエッラーラに送る。
カテリーナの埋葬に要した諸経費のリスト。
フランス王シャルル8世がグルノーブルより3万の軍勢を率いてイタリアげ進軍。9月3日にはイタリア侵入
ミラノ公ジャンガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ死去
フランス王シャルル8世がフィレンツェに入城
近代会計学の父とよばれるルカ・パチョーリが『スンマ』を出版する
1495年(43歳)ミラノの公文書に、技師で画家としてのダ・ヴィンチ名が記載。

ルカ・パチョーリの「スンマ」を購入。

9月1日、4日 赤ワインの購入メモ
北条早雲、小田原城を奪取フィレンツェでサヴォナローラの神権政治による共和国政府が発足
イタリア諸国と神聖ローマ帝国、スペイン王国が対仏神聖同盟を宣言
イル・モーロ、フランス王より正式にミラノ公として承認される。
フィレンツェのヴェッキオ宮内に五百人広間の基礎ができる。
1496 年(44歳)1月2日、​「明日1496年1月2日の朝、試しに革の紐を造らせよう」

1月31日、バルダッサーレ・タッコーネ台本による
「ダナエ」劇上演、レオナルドは総合演出を担当
ミラノに来たルカ・パチョーリと交友。
蓮如が石山本願寺を建立
​1497年(45歳)4月4日、サライに服を買ったメモ。サライが4ソルディ盗む。
9月18日、イオディッティが来て住み始めたことの記録。
9月28日、「トルコのニオライオの子タデオは、
サン・ミケーレの祝日の前日、1497年9月28日に9歳を迎えた」
10月17日、買い物の記録。
10月17日、ベネデットが来て住み始めたとの記録(おそらくこの年)
12月7日、金額の記録。
陸奥国飢饉バスコ・ダ・ガマ、インド航路を開拓
​1498年(46歳)2月頃、​『最後の晩餐』完成。
2月8日、スフォルツァ城での「学芸の決闘」にパチョーリと参加。
3月17日、鉄を延ばす力についての記述。
4月10日、レオナルドが、「黒の間」の装飾を
手掛けていることをミラノ財務官バスカペが記録。
4月23日、レオナルドが「アッセの間」に
とりかかることをバスカペが記録。
4月26日、イザベッラ・デステから、チェチリア・ガレッラーニに宛てて、レオナルドが描いたチェチリーニの肖像画(=『白貂を抱く貴婦人』)を貸して欲しいのとの手紙。
4月29日、チェチリアからイザベッラに返書。
5月18日、イザベラから絵を返却したとのチェチリアへの手紙。
伊勢国・丹後国の守護大名である一色義秀が国衆に攻められて自殺する。ジョン・カボットがハドソン海峡を発見する。

ポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマ、インドのカリカット(コーリコード)に到着。
1499年(47歳)​金額のメモ。
4月26日、イル・モーロから、ミラノ郊外の葡萄園を与えられる。(1498年の説もあり)
8月1日、「ここに運動と重さについて記す』
12月14日、ミラノからフィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院への送金記録600フィオリーニ。
1500年(48歳)「公は国も財産も、自由も失ってしまった・・・」​
2月頃、​[→マントヴァ]​公妃イザベラ・デステの肖像をデッサン
3月 [ヴェネツィア]​ヴェネツィアにいる。
3月14日、ヴェネツィアでレオナルドによるイザベラの肖像を見た。
とのロレンツォ・グスナスコからイザベッラ・デステへの手紙。
4月24日 [→フィレンツェ]ヌーヴァ病院の口座から50ドゥカーティ出金。
後土御門天皇の崩御、資金不足で葬儀も満足に行えずノヴァーラの戦い。ミラノ奪還を測ったイル・モーロは大敗し、捕虜になる。
1501年(49歳)[ローマ]ティヴォリでヴィッラ・アドリアーナを見学。
3月 [フィレンツェ]フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータで
『聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネ』のカルトンが
2日間公開されて評判をよぶ。
2月27日 イザベラ・デステからフラ・ピエトロ・ダ・ノヴェッラーに対し、
レオナルドの近況報告を求める手紙。
4月3日 ノヴェッラーからイザヴェッラへの返信、
当時のレオナルドの制作の様子と上記のカルトンの構図がわかる。
4月14日 ノヴェッラーラからイザベッラへの書簡、
レオナルドがフロリモン・ロベッテのために『糸巻きの聖母』を描いていることなどの報告。
マンフレード・マンフレディから
イザベッラ・デステへの書簡(レオナルドからの返事の伝言)
日本、改元して文亀元年。
1502年(50歳)5月3日 イザベッラ・デステからフランチェスコ・マラテスタに宛てて、レオナルドを訪ねてほしいとの手紙。
5月12日 マラテスタからイザベッラへの返信
(クリスタルの壺など4点のレオナルドの評価額)
夏前〜年内いっぱい、[→北中部各地]チェザーレ・ボルジアと転戦
7月30日 [ウルビーノの鳩舎]
8月1日 [ペーザロの図書館]
8月5日、「8月半ば、チェゼーナで、サンタ・マリアの日(8/5)に」
8月8日 「リミニの噴水で見たように、水の落下を使ってハーモニーを作れ」
8月10日 「チェゼーナ、サン・ロレンツォの市で」
8月18日 チェザーレから通行許可書の交付、
レオナルドの肩書きは「建築家および技師」
9月6日 「15時(=午前9時)ポルト・チェゼナーティコ」と軍事用メモ。
10月 マキャヴェッリ、フィレンツェからチェザーレ勢力下のイモラに派遣される。同地でレオナルドと親交を結ぶ。
年末 フィレンツェに戻った?
京のはしか流行で死者続出
1503年(51歳)アンブロージョ・デ・プレディスとともに、『岩窟の聖母』の支払額再審査を求める。
『ラ・ジョコンダ』に着手。
​3月5日 ​フィレンツェに戻っている。
ヌオーヴァ病院の口座から50ドゥカティ出金。
3月9日、ルイ12世、『岩窟の聖母』の調停をミラノ法務官に要請。
4月18日 アッタヴァンテ・ディ・ガブリエッロに4ドゥカーティ貸した記録、
サライに金を貸し、布を与えた記録(アランデル手稿)
7月3日 オスマン・トルコのスルタン、バヤズィット2世に宛てて、自薦状を送付(ただし疑う説もある)
7月22日、「マッダレーナの日(=7/22)になされたアルノ川の水位測定」
9月7日 フィレンツェ、ピサを攻撃、マキャヴェッリとともに、レオナルドも参加か?
10月 レオナルドがリザ・デル・ジョコンド
(ゲラルディーニ)の肖像を描いていると
アゴスティーノ・ヴェスプッチが記録。
10月16日 〈アンギアーリの戦い〉のためのカルトン制作場所
として、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の教皇広場が準備される。
10月18日 フィレンツェの画家組合に再加入。
10月24日 教皇広場の鍵の交付。
12月16日 カルトン制作の足場を組むための木材が
教皇広場に搬入される。
この頃、116冊もの蔵書目録を記す。
立河原の戦い:扇谷上杉朝良・氏親・伊勢宗瑞(北条早雲)の連合軍が山内上杉顕定に勝利する。
​1504年(52歳)1月8日 ​再び、教皇広場で足場を組むための作業。
5月4日 〈アンギアーリの戦い〉制作の正式な契約締結、4月からの支払い記録あり、
5月14日 イザベラ・デステ、アンジェロ・デル・トヴァーリアを介して
レオナルドに「12歳ぐらいの若いキリスト像」と依頼する書簡。
5月27日 トヴァーリアからイザベッラへの返信、
レオナルドが承諾したとのこと。
6月29日〜7月8日 召使いトンマーゾとサライに対する
家計用の出費などのリスト、ほぼ1週間分。
7月9日 父:セル・ピエロ死去。水曜日7時。加えて
「ポデスタ宮の公証人で、わが父、7時に、80歳で、
10人の息子と2人の娘を残す」(アランデル手稿)
7月11日〜8月1日 召使いトンマーゾンとサライに対する
家計用の出費などのリスト。
8月3日〜9月16日 ドイツ人のヤコボが住み始めた記録と出費メモ(アランデル手稿)銀行から引き出した記録も。
10月31日 イザベッラ、デステからレオナルドへ嘆きの手紙。
11月1日 [ピオンビーノ]ピオンビーノにて、
領主に説明したとのメモ、同日、太陽がつくる影についてのメモ。
11月20日 「ビオンピーノの城壁」
11月30日 円の面積の求め方を理解した、との記述。
12月25日 クリスマスの朝に発明したとのメモ。
1505年(53歳)​『レダと白鳥』の下絵を制作。
​​
3月5日 「3月3日土曜日、サンタ・マリア・ヌオーヴァから
50ドゥカーティ出金、残り450,50をサライに返却」
1503年説、1505年説、1507年説などがある。
いずれの年も3/5は土曜日ではない。
3月14日 鳥が上昇する様子を観察したメモ。
4月14日 「ロレンツォが私のところに来る、17歳」
4月15日 受領記録。
4月30日 〈アンギアーリの戦い〉のカルトンを壁面に転写しはじめる。
6月6日 〈アンギアーリの戦い〉彩色開始、
フィレンツェは豪雨にみまわれ、壁画は壊滅的な被害をうける。
7月12日 「私レオナルド・ダ・ヴィンチによって始められる」(「幾何学の書」書き出し)
幕府が京都の盆踊りを禁止ポルトガル人がモーリシャス島をヨーロッパ人としてはじめて訪れる。
​1506年(54歳)4月27日 ミラノで『岩窟の聖母』の支払額の再審査と再契約締結(200リラの追加と2年の納品期限)
4月30日 父:セル・ピエロの遺産分配が、レオナルド抜きでおこなわれる。
5月3日 義理の叔父:アレッサンドロ・アマドーリ(レオナルドの継母の弟)から、イザベッラ・デステに宛てて、レオナルドに約束の絵を描かせるとの手紙。
5月12日 イザベッラからアマドーリへの返書。
この頃、フランスのミラノ総督シャルル・ダンボワーズからミラノへ招かれる。シャルル・ダンボワーズの要請により、
ミラノで「オルフェオ」劇再演。
5月30日 フィレンツェ政府から、ミラノへの3カ月の滞在を許可される。
違反した時は150ドゥカーティの罰金との条件。
6月1日 [→ミラノ]ミラノへ出発。
この頃、ミラノで『岩窟の聖母』の第二ヴァージョン制作。
8月18日 シャルル・ダンボワーズから
フィレンツェ政府に対し、
レオナルドの滞在延長を要請する文書。
8月19日 再度、同様の文書。
8月28日 フィレンツエ政府から返事、
レオナルドのミラノ滞在を9月までとする。
9月末 シャルル・ダンボワーズから、
レオナルドの滞在再延長をフィレンツェ政府に要請。
10月9日 フィレンツェ共和国長官ピエロ・ソデリーニから
シャルル・ダンボワーズに対し、拒否の返書。
12月16日 シャルル・ダンボワーズから、
フィレンツェ政府に対し、再延長の許可に感謝する文書。
ジグムント1世スタルィがセイムでポーランド王に選出される
1508年(56歳)3月22日 ​フィレンツェの
ピエロ・ディ・ブラッチョ・マルテッリ家について、この日から、手稿の断片を集めて書にすることを宣言した、読者に向けてのことば(アランデル手稿)
この頃、「閣下」「シャルル・ダンボワーズ」「メルツイ」に宛てた3通の手紙の草稿(訴訟がほぼ決着したことがわかる)
7月頃 ミラノに戻り、
オリエンターレ門の近くに工房をもうける。
この頃、『トルヴルツィオ騎馬像』計画に着手。
​8月18日 ​『岩窟の聖母』第二ヴァージョンに関する文書。
10月 30スクーディ受け取り、うち13スクーディをサライの妹の嫁資としてサライに貸す。
10月23日 『岩窟の聖母』への最終的な支払い記録。
前将軍足利義稙が大内義興・細川高国とともに入京。将軍足利義澄は近江に逃亡し、義稙が将軍復帰。マクシミリアン1世が教皇による承認を得ず神聖ローマ皇帝に即位
1509年(57歳)4月 1508年7月から、1509年4月までに王から受け取った給与のメモ、
4月30日 「5月1日の前夜、日曜日の22時に解を見出した」と幾何学の面積問題のメモ。
5月3日 「ミラノのサン・クリストファノの運河、1509年5月3日に完成」
如意ヶ嶽の戦い:細川高国・大内義興連合軍の勝利。細川澄元・三好之長は阿波に撤退する。ヘンリー8世がイングランド王に即位する。
1510年(58歳)9月26日、​「アントニオ足を骨折、40日間の安静」(ボルトラッフィオのこと)
この頃、マルカントニオ・デッラ・トッレと親交。
冬より前、「1510年の冬には、この解剖を終えているはずだ」
長森原の戦いイタリアの画家「ラファエロ・サンティ」がフレスコ画「アテナイの学堂」を制作
​1511年(59歳)1月5日 アルプス旅行中
1月5日 彫刻家:ベネデット親方(ベネデット・ブリオスコ?)が、サルッツオ近郊の採石場から、カッラーラの大理石によく似た石の破片を顔料用に送ってくれると約束した、と記す。
12月16日 火災発生(二度目はスイス兵による)のメモ。
船岡山合戦、将軍足利義稙と前将軍足利義澄の軍勢が合戦
1513年(61歳)1月9日 日付の記入。
9月24日 メルツイやサライとともにミラノからローマへ出発。
秋、ミラノからローマまでの荷物の輸送費に関するメモ。
10月10日 旅の途中でフィレンツェに寄り、ヌオーヴァ病院で、300ドゥーカティを貯金。
10月頃 ローマ入りか?
12月 ローマのヴェルヴェデーレ宮にいる。
12月1日 教皇庁付き建築家:ジュリアーノ・レーノによる「ヴェルヴェデーレ宮殿のリオナルド・ダ・ヴィンチ氏の諸室に施すべきこと」のメモ。月額33ドゥーカティを得ている。
スペインの探検家バルボア、太平洋到達(南の海と命名)
​1514年(62歳)7月7日 「1514年7月7日23時、ベルヴェデーレ宮にイル・マニフィコ(ジュリアーノ・デ・メディチ)
が私のために準備した書斎にて終了」
9月27日 パルマにいると記す。
9月27日 「サンタンジェロに近いポーの河岸で」
12月、ローマにいて、異母弟で公証人:セル・ジュリアーノの訪問をうける。
チャルディラーンの戦い。
1515年(63歳)1月9日 ​パトロンのヌムール公ジュリアーノ・デ・メティチが婚礼のためにローマを発ったとのメモ、
レオナルドはローマにいる。
7月12日 フランソワ1世凱旋式のための機械仕掛けのライオンをリヨンに送付。
7月か8月 フィレンツェにいるムール公の手紙の下書き、(病気から快復したこと、月7ドゥカティのジョルジュ(ゲオルク)、鏡職人のジョヴァンニ(ヨハン)という二人のドイツ人助手への不平を記している)
10月8日 ローマのフィレンツェ出身者たちによる
洗礼者ヨハネ同信会への入会審査。
10月 教皇レオ10世の随員としてフィレンツェへと出発。
11月30日 フィレンツェ到着。
12月9日、ミラノからフィエーゾレの農場管理人ザノピ・ボーニに対し、今年のワインにはガッカリとの手紙。
12月14日 [ボローニヤ]教皇とフランス王との会見場に出席。
12月17日 ボローニャを発つ。
フランス王国、フランソワ1世が即位
1516年(64歳)3月3日 ​「この法則を見出した」(幾何学に関して)
8月 ローマのサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会の計測メモ。
冬 [→アンボワーズ]フランスへ出発。
伊勢宗瑞(北条早雲)が相模国の三崎城(新井城)を攻略、相模三浦氏を滅ぼす。相模を平定。カール5世がスペイン王即位。
1517年(65歳)1月15日 ​[ロモランタン]「聖アントニオの祝日(=1/16)前夜、ロモランタンから、アンボワーズに戻る」
5月 アンボワーズのクルー館にて
10月10日 ルイジ・ダラゴーナ枢機卿の一行が、クルー館のレオナルドを訪問。随員のデ・ベアティスは、
膨大な量の手稿および絵画3点を見る。
レオナルドが30人以上の解剖をおこなってきたとの証言も記す。
12月29日 デ・ベアティス、ミラノで『最後の晩餐』が激しく傷んでいると記す。
ロンドンにて暴動発生(魔のメイ・デー事件)
1518年(66歳)5月3日 フランソワ1世の姪マドレーヌと教皇レオ10世の甥ロレンツォ・デイ・ピエロ・デ・メディチの
祝婚式典(アンボワーズ城にて、6日まで)
6月19日 祝婚行事の一部として、クルー館で、
レオナルドによる装置を用いた「パラディーゾ」の再演。
6月24日 「アンボワーズのクルー館にて」
1519年(67歳)4月23日、​遺言書に捺印。
5月2日、レオナルド、アンボワーズで死去。
6月1日、メルツイから、レオナルドの異母弟セル・ジュリアーノ・ダ・ヴィンチに宛てて、レオナルドの訃報と遺産分与を告げる書簡。
8月12日、アンボワーズのサン・フロランタン教会にて葬儀。
幕府が新興商人の市場参入を公に許可

フェルディナンド・マゼランの艦隊が世界周航に向けてセビリアを出航する
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