ダ・ヴィンチの最期の作品『洗礼者ヨハネ』
今回はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、『洗礼者ヨハネ』について解説します。

『洗礼者ヨハネ』は、ダヴィンチの重要な晩年の作品の一つで、最も最後に描かれた作品と言われています。
この絵には卓越した芸術性はもちろんながら、深い哲学的な意味合いがあるとされます。
記事の中で、『洗礼者ヨハネ』の謎の一部を解き明かしていきたいと思います。
作品の概要と制作の経緯
まずは、作品の概要をお伝えします。
タイトル 『洗礼者ヨハネ』
制作年 1513年頃 – 1516年頃(推定)
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
技法 油彩
材質 クルミ材
オリジナルサイズ 69 cm × 57 cm(資料によっては若干の差異あり)
所蔵場所 ルーヴル美術館(パリ、フランス)
この絵画は、ルネサンスからマニエリスムへの移行期に制作されました。
ルネサンス美術が古典的な調和と均衡を重視した時代から、より感情的で動きのある表現へと変化していく時期に描かれており、ダ・ヴィンチは晩年であっても、その風潮を敏感に感じ取っていました。
『洗礼者ヨハネ』は、誰の依頼によって制作されたのか、あるいはレオナルド自身の発意によるものなのかは、明確には分かっていません 。
この不明確さが、作品の謎めいた魅力をさらに深めています。 そもそも、洗礼者ヨハネとはどのような人物なのでしょうか?
洗礼者ヨハネの生涯
洗礼者ヨハネは、キリスト教に出てくる登場人物の1人です。
ヨハネの名前は「神が与えた」または「主は恵み深い」という意味を持ち、その誕生自体が、旧約聖書の預言者の誕生物語と同様に、神の特別な恵みを示す出来事とされています。
教会は彼の誕生を祝っており、それは聖母マリアを除けば、典礼でその誕生が祝われる唯一の聖人です。
彼は、旧約聖書と新約聖書を結ぶ架け橋であり、旧約最後の預言者とされています。
洗礼者ヨハネとイエス・キリストは親戚であり、ヨハネはイエスよりわずかに年上でした。
ヨハネの主な役割は、イエスの宣教活動のために道を備え、彼をメシアとして示すことでした。
ヨハネはイエスの優位性を認識し、自分はイエスのサンダルを脱がせる価値もないと述べています。
イエス自身はヨハネの重要性を認め、彼を預言者の中で最も偉大な者と呼びました。
では、ヨハネはどのような生涯を送ったのでしょうか?
悲劇的な生涯
ヨハネは、イエス・キリストより約6ヶ月前に、高齢の祭司ザカリアとエリサベト(イエスの母マリアの親戚)の間に生まれました。
彼の誕生は天使ガブリエルによって予告され、「ヨハネ」という名前も神によって定められたものでした。
彼は成長すると荒野で禁欲的な生活を送り、ラクダの毛衣をまとい、皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていました。この生活様式は、預言者エリヤを彷彿とさせるものと言われています。
紀元28年頃、ヨルダン川周辺で公の宣教活動を開始し、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説き、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を授けました。
彼の洗礼は、ユダヤ人を含むすべての人々に対する、内面の変革を求める根本的な回心を強調するものでした。
ヨハネは、イエスが自分の元に洗礼を受けに来た際に、当初はイエスを神の子と認識してためらいましたが、最終的にはイエスに洗礼を授けました。
この出来事は、イエスの預言者の始まりを示しています。
しかしその後、ヨハネは、ヘロデ・アンティパス王が兄弟の妻ヘロディアと結婚したことを批判したため、ヘロデによって逮捕され投獄されました。
ヘロデの誕生日祝宴で、ヘロディアの娘サロメ(聖書には名前が明記されていません)が踊りを披露し、ヘロデを大いに喜ばせました。ヘロデは彼女の望むものを何でも与えると約束し、母親のヘロディアに促されたサロメは、洗礼者ヨハネの首を要求しました。 不承ながらも、ヘロデは約束を守ってヨハネの斬首を命じました。ヨハネの弟子たちは彼の遺体を引き取り、埋葬しました。
ヨハネの文化的な影響
洗礼者ヨハネはキリスト教において非常に崇敬されており、カトリック教会、正教会、聖公会などの伝統において聖人とされています。
彼の生涯と死は、何世紀にもわたって西洋美術の人気のテーマでした。
特に、サロメと洗礼者ヨハネの首の物語は、多くの芸術家や作家の想像力を刺激してきました。
彼はしばしば荒野で孤独な姿や、イエスに洗礼を授ける場面で描かれています。その禁欲的な生活は、修道院の伝統の模範となりました。
彼の肖像は、聖母マリアと共にキリストの両側に配され、仲介者として描かれることがあります。
彼の物語は、ストラデッラのオラトリオなどのオペラや他の音楽作品でも上演されてきました。また、「ヨハネ」(およびジャン=バティスト、バッティスタなどの派生形)は、人気のある洗礼名であり続けています。
また洗礼者ヨハネの斬首は、殉教と、宗教的信念と政治権力の衝突を象徴するものとして、美術や文化に大きな影響を与えています。
ダ・ヴィンチも洗礼者ヨハネに関する作品を制作しましたが、これまで描かれてきた伝統的な描写とは異なっています。
ダ・ヴィンチ作品にはどのような特徴があるのでしょうか?
ダ・ヴィンチ版 『洗礼者ヨハネ』の特徴
ダ・ヴィンチ以前の伝統的な絵画では、ヨハネは、禁欲生活の影響でやせ細り、年老いた弱々しい人物として描かれてきました。
しかし、それとは反対に、ダ・ヴィンチはヨハネを若々しくエネルギッシュに描いています。
若々しいヨハネ
ダ・ヴィンチの描くヨハネは、長く豊かな巻き毛と、粗野な獣皮を身につけており、これらは、伝統的な図像表現に合っており 、彼の禁欲的な生活と、預言者としての役割を示唆しています 。
そしてヨハネを若々しい人物として描いています。
詳しい理由はわかっていませんが、若々しさは、聖人としての精神的な活力や理想化された姿を強調していたのかもしれません。
またヨハネは、男性のようにも、女性のようにも見える、性別が曖昧な中性的な特徴を持っていることも指摘されています 。
謎めいた表情とポーズ
ヨハネの最も特徴的な要素の一つは、モナ・リザを彷彿とさせる謎めいた微笑みです。
この微笑みは、見る者に様々な感情や解釈を抱かせ、作品に深い神秘性を与えています。
伝統的な宗教画における厳粛な表情とは対照的であり 、その意味について様々な議論がなされています。
ポーズは、片方の腕を胸に当て、もう一方の手を天に向かって指さすというもの。
この天を指さすジェスチャーは、レオナルドの他の作品にも見られるモチーフであり、一般的には、神聖な存在や啓示を示唆するものと解釈されています 。
このポーズを際立たせるのが、ダ・ヴィンチの描く光と影です。
キアロスクーロとスフマート
絵画全体を通して、「キアロスクーロ」という技法、すなわち光と影の強いコントラストを用いた表現がとりいれられています 。
この技法によって、人物像は暗闇の中から浮かび上がるように見え、すぐれた効果を生み出しました。
光はヨハネの顔や上半身に集中し、その表情やジェスチャーを際立たせています。
さらに、ダ・ヴィンチは「スフマート」という色彩と輪郭を曖昧にする技法を用いており、柔らかなぼかしを描きました 。
このスフマートの効果が、絵画に神秘的な雰囲気を与え、ヨハネの中性的な印象を強調しています。
暗い背景
背景は、ほとんど抽象的な暗闇で満たされており、具体的な風景や事物は描かれていません 。この簡素な背景は、鑑賞者の注意を完全に人物像に集中させ、聖人の孤独感や神秘性を際立たせています 。
ダ・ヴィンチはこのような描き方をして、深いメッセージを込めていると考えられています。
葦の十字架
洗礼者ヨハネが左手に持っている葦の十字架は、伝統的には、ヨハネがキリストの先駆者であり、キリストの受難を象徴しています。
獣皮
ヨハネが身につけている獣皮(ラクダの皮)は、ヨハネが荒野で禁欲的な生活を送ったこと、そして預言者エリヤとの関係を示すものです 。
しかし、ダ・ヴィンチによる毛皮の描写は、伝統的な粗野なイメージとは異なり、よりキレイでスマートな印象に見えます 。
これは、ヨハネの禁欲的な側面よりも、むしろ別の意味合いを強調しているのかもしれません。
天を指さすジェスチャー
指をさすジェスチャーは、『岩窟の聖母』の天使、『最後の晩餐』の弟子、そしてこの『洗礼者ヨハネ』に共通して見られるモチーフです 。
一般的な解釈としては、天国や来たるべきメシア(キリスト)を示しているとされます 。
しかし、それ以上の意味合いとして、絵画を見ている人の視線を誘導しているように見えます。
その絵画の上にあるものとは?
絵画の解釈まとめ
全体的に、伝統的な解釈をしてしまいがちですが、ダ・ヴィンチは伝統的な絵画を描くよりも、先駆者的な描き方をすることが多かった人物です。
従来の表現をしなかったところに、私たちにより深いメッセージを投げかけているように感じられます。
なぜ背景をぼかし、人物のヨハネに集中させたのか。
そしてヨハネに集中すると指先に視線が延びていきます。
きっとそこにダ・ヴィンチの言いたかったことがあったのでしょう。
モデルとなった人物
『洗礼者ヨハネ』のモデルが誰であるのかは、まだハッキリとは明らかになっていません。
レオナルドの助手であったサライがモデルではないかという説が有力であり 、サライはレオナルドの他の作品にも男女両方の特徴をもつ中性的な人物像として描かれています。
完成度と工房の関与
絵画はレオナルドの死の時点で未完成であった可能性があり、特に右腕や毛皮の部分は彼の工房の他の画家によって完成されたのでは、とも推測されています。
修復の影響
ルーヴル美術館で行われた修復作業、特に2016年の大規模な洗浄は、絵画の外観に大きな影響を与えた可能性があります。
修復は作品の保存に不可欠で、本来の色調や質感を損なうこともありますが、それでもダ・ヴィンチ絵画が魅力的なことにはかわりません。
ダ・ヴィンチ以外の絵画
美術史を通じて、洗礼者ヨハネに関する絵画は数多く存在します。
これらの絵画は、キリストの洗礼、荒野でのヨハネの説教、サロメがヨハネの首を持つ場面など、ヨハネの生涯のさまざまな側面を描いています。
ダ・ヴィンチのの『洗礼者聖ヨハネ』は、その謎めいた微笑みで特に有名です。カラヴァッジョの作品は、しばしば斬首の劇的な瞬間を描き、写実主義と明暗法を強調しています。ティツィアーノも、洗礼者ヨハネの首を持つサロメの絵を数点制作しています。
例えば以下のような絵画があります。
タイトル | 画家 | 制作年 (推定) | 所蔵場所 |
洗礼者聖ヨハネ | レオナルド・ダ・ヴィンチ | 1513-1516 | ルーブル美術館、パリ |
洗礼者聖ヨハネの斬首 | カラヴァッジョ | 1608 | 聖ヨハネ大聖堂、バレッタ(マルタ) |
洗礼者ヨハネの首を持つサロメ | ベルナルディーノ・ルイーニ | 1527年頃 | ウフィッツィ美術館、フィレンツェ |
洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ | ルーカス・クラナッハ(父) | 1530年代 | ブダペスト国立西洋美術館 |
サロメ(洗礼者ヨハネの首を持つサロメ) | ティツィアーノ | 1515年頃 | ドーリア・パンフィーリ美術館、ローマ |
サロメ | ティツィアーノ | 1555年頃 | プラド美術館、マドリード |
ルイーニ作「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」
ルネサンスの画家ベルナルディーノ・ルイーニが1527年ごろ、板上に油彩で描いた絵画。
生首を手で持ち上げるという、ちょっと衝撃的な作品です。

それは、ルイーニがダ・ヴィンチ作である女性の肖像『ほつれ髪の女』を参考に、左から2番目の女性、サロメを描いたから、と言われています。

「荒野の中の洗礼者ヨハネ」
ルーヴル美術館にある『洗礼者ヨハネ』、実はもう1枚のヨハネがルーヴルに存在します。
それは、『荒野の中の洗礼者ヨハネ』と呼ばれる作品です。

よく見ると、ダ・ヴィンチ作の『洗礼者ヨハネ』の人物とそっくりですが、
下絵は師匠であるダ・ヴィンチが描いて、着色は弟子が手がけたのではないかと言われています。
そのため、ダ・ヴィンチの真作というよりは、ダ・ヴィンチ工房作という扱いになっています。
『荒野の中の洗礼者ヨハネ』の不思議な点は、実は『バッカス』という別名で呼ばれることがあることです。
バッカスはギリシャ神話のお酒の神様であり、キリスト教の登場人物ではありません。
果たして、ダ・ヴィンチは、『洗礼者ヨハネ』を描こうとしたのか、それとも『バッカス』か、
あるいはその両方を包含する作品として描こうとしていたのか、あまり知られざるミステリーなのです。
まとめ
今回は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作の『洗礼者ヨハネ』について解説しました。
ダ・ヴィンチの作品には、数多くの深いメッセージが残っており、まだまだ解明しきれたとはいえません。
いつかまたお伝えできるチャンスがあれば、お話したいと思います。