レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンス期のイタリアを代表する芸術家であり、建築、音楽、解剖学、工学、彫刻、幾何学、絵画など、多岐にわたる分野で才能を発揮した万能の天才でした。
彼の作品は、今日でも世界中の人々を魅了し続けていますが、その死因についてはまだ謎も多いです。
本稿では、レオナルド・ダ・ヴィンチの死因について、資料や研究成果に基づき考察し、ダ・ヴィンチの最期に迫ります。
ダ・ヴィンチの臨終の状況
レオナルド・ダ・ヴィンチは晩年、右手が麻痺していたという報告があります。
1519年5月2日、フランスのアンボワーズ城で弟子であるフランチェスコ・メルツィに看取られて67歳で亡くなりました。
当時、彼はフランス国王フランソワ1世の庇護を受けており、王から与えられたクロ・リュセの館で穏やかな晩年を過ごしていたと言われています。

公証人の父と小作農の母との間に生まれたダ・ヴィンチは、その生涯を通じて、芸術と科学の境界を超越した探求を続けました。その目を見張る活躍ぶりは王様の耳にも入り、パトロンが取り合いをしたほどです。
ダ・ヴィンチは死の直前、国王フランソワ1世に抱きかかえられていたという逸話が残っています。
絵画『フランソワ1世に抱かれるレオナルド・ダ・ヴィンチ』について

ダ・ヴィンチが死の直前、国王フランソワ1世に抱きかかえられて亡くなったという逸話は、国王がダ・ヴィンチの才能を高く評価し、深い敬意を抱いていたことを示しています。
この絵は、フランスの画家ドミニク・アングルが1818年に描いた歴史画です。フランソワ1世はフランス・ルネサンスを牽引した国王であり、ダ・ヴィンチをフランスに招いたことでも知られています。
本作は、ジョルジョ・ヴァザーリが著した『美術家列伝』に記された言い伝えに基づいて描かれています。
しかし、当時フランソワ1世は、王令を発す任務をしており、ダ・ヴィンチの死に目にはあえておりません。
彼の死に関する記録は少なく、正確な死因は明らかになっていませんが、いくつかの見解を紹介します。
レオナルド・ダ・ヴィンチの死因
ダ・ヴィンチの死因については、古くから様々な議論が交わされてきました。
中でも脳卒中が有力なのではないかと言われています。
・脳卒中説
16世紀の画家であり伝記作家であるジョルジョ・ヴァザーリは、ダ・ヴィンチが「死の使者である発作」に襲われたと記しています。身体に生じる麻痺は、脳卒中が原因である場合があり、ダ・ヴィンチの死因と想定されています。
・食生活と脳卒中の関連性
ダ・ヴィンチは晩年、ベジタリアンだったと言われています。野菜ばかり食べることは健康に良いイメージがあるかもしれません。
実際に、オックスフォード大学の研究(2019年)では、肉を食べる人たちに比べ、ベジタリアンは虚血性心疾患(心筋梗塞、狭心症など)のリスクは2割ほど低かった報告されています。
ところが、脳卒中になるリスクは、ベジタリアンで20%上昇し、特に出血性脳卒中にいたっては43%上昇したと報告されています。ダ・ヴィンチもこの研究結果を知っていればベジタリアンではなかったかもしれません。
晩年のエピソード
レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子であるメルツィが、ダ・ヴィンチの功績をたたえ、
「先生、あなたの偉大な業績は永遠に語り継がれるでしょう。『モナ・リザ』、『最後の晩餐』、『聖アンナ』など不朽の名作の数々、そして建築家、詩人、思想家としての才能、自然科学における数々の功績。あなたの名は後世まで輝き続けるでしょう」
と師匠に言ったところ、ダ・ヴィンチは、
「いや、何も残りはしない」
と答えたという言い伝えがあります。
そして弟子が、師匠を勇気づけようと、
「先生…しかし、私たち弟子への優しさと愛情は、いつまでも私たちの心に残り続けるでしょう」と言ったところ、
「いや、愛も友情も残りはしない」
と答えたといいます。なんとも寂しい最期ですね。
大洪水のスケッチ
ダ・ヴィンチは、晩年、大洪水のスケッチを10枚以上描き残しています。代表的な作品がこちらです。

得体の知れない死への不安から、このようなスケッチを残していたのかもしれません。
ダ・ヴィンチは、「地球の最後は水に包まれてしまう」と考えていました。終末思想を持っていたのでしょう。
死の不安、消滅さえもアートへと昇華するダ・ヴィンチの姿勢には脱帽させられます。
以上、「ダ・ヴィンチの死因:謎に包まれた最期について」の記事でした。